「中論」がわからない・・・
昔から「自分」というものがないと、他人から非難されてきた。
中学では(柄の悪い中学だったので)、不良が幅をきかせてくるんモンだから、大変だった。高校受験を控えているだけに、勉強をしながらも、不良達に目をつけられないという、殆どアメリカに目をつけられない程度に技術を磨く日本企業のような政治力が必要とされたのだ。
不良達に嫌われないように、不良を尊敬するフリをして、影でこつこつと勉強する日々・・・その勉強自体の意味もわからない。勉強が好きなわけでは決してない。ただ、私は不良にはなれないし、だったら不良のいない高校にに行こう・・・くらいのモチベーションでやっていたような気がする。
こんな私が、「自分」というものを見失うのも無理はない。
相手に合わせることに必死になってる間に、「私」というものがよくわからないまま、さんじゅうななさいまで生きてしまった・・・・・・・・。
このままでいいのだろうか。いや、いいわけはない・・・。
悶々としているときに、人は哲学に走る。
私は高校に入ってから、哲学というものに興味を抱き始めた。
ぶっちゃけ、なんでこの世に哲学があるかというと、自分の情けなさから逃げたくて、自分の情けなさに言い訳を加えたいだけのために、人は哲学に走るのだ。その需要があるから、哲学というものが存在するのだ。
・・・というわけで、私は、高校時代から、自分の「自分のなさ」を言い訳してくれる哲学を探し求めて、必死になっていた。
が、高校の倫理くらいの勉強ではそんなもん見つかるわけもなく、普通に就職を考えて法学部に進むという情けない道を歩む私であった・・・。
その後も、未練がましく神社めぐりなどをして哲学や信仰への未練が断ち切れない日々が続く・・・。
そこで、最近出会ったのが、龍樹(ナーガールジュナ)という人が書いた「中論」という哲学だ。仏教の創始者、仏陀の教えから、「大乗仏教」に発展させた功労者の書した哲学である。
どうも、中論というのはスゴイ哲学らしい。方々から「スゴイ」「スゴイ」という噂だけは聞く。太極拳のK先生などは、「未だ中論を超える哲学は存在しない」と豪語しているくらいだ。
で、その中論には、「自分というのは存在しない。すべては縁起によって存在している云々・・・」などと書かれている、らしい。
このとき、私は、これぞ、私の過去37年の暗い人生をすべて言い訳してくれる哲学として、信奉すべき哲学だという光明を得たのである。
というわけで、私も「中論」というものを読んでみようと思い立った。読んだ翌日には、あたかも自分が編み出した哲学であるかのごとくふるまってやろうという邪心のもと、「中論」の訳本を数冊読んでみた。
・・・が、さっぱりわからん・・・(笑)。
何冊か読んでみて、ようやく解読可能だったのがこの本。
「ウィトゲンシュタインから龍樹へ~私説「中論」」(黒崎宏著)
ウィトゲンシュタインは「言語論」のアプローチから哲学を語ったことで有名な人だけど、龍樹から多くの影響を受けているらしい。私達の脳みそは既に西洋哲学に犯されてしまっているので、ウィトゲンシュタインから入るのがイイのかも・・・。っつ~か、それだけでも大変か(笑)。
でも、今まで読んだ中では、一番読みやすく、わかりやすかった。
「私説」という注釈が入ってるので、黒崎氏の恣意が入ってるとは思うけど、入門書としては一番いいのではないかと思う。
ああ・・・それにしても、私が中論を理解し、私の人生を言い訳できる日が来るのはいつなのだろう・・・。
・・・で、言い訳できたからといって、それがなんだと言うのだろう・・・いや、それは考えないことにする(笑)。
| 固定リンク


コメント
う~む哲学ですかー 難しい本を読んでますな。
オレも昔、好きな人が哲学を勉強していて、不純な動機で哲学書を読んだことがありますが、いい睡眠剤でした。(興味はあったけどね)
黒崎宏の中論ですね。機会があったらチャレンジしてみます。
私は「空手と気」宇城憲治著を読んでます。
投稿: ベジータ | 2007年7月 1日 (日) 09時16分
以前中論から国学あたりのレジュメ?をあげた時いなかったっけ?
論法を簡略化すると身体のある気の感覚に辿り着くワークを紹介してるんだけど。
人生の言い訳かあ・・・
社会的倫理や価値観ていうものに人生を押し込もうとするなら中論などの哲学はその外の世界を指してることがわかるから、言い訳じゃなく開放はされるかもしれないね。それまでの精神の梗塞を手放せればね。
そこから、自分の身体は人生だけど、人生は意識と切り離せる実践的な所、非想像な「自由」へ向かう旅も始まるかもしれませんね。
投稿: K先生 | 2007年7月 2日 (月) 15時52分